詩に興り礼に立つ:中井竹山における『詩経』学と礼学思想の研究

詩に興り礼に立つ:中井竹山における『詩経』学と礼学思想の研究
定價:550
NT $ 468 ~ 523
  • 作者:田世民
  • 出版社:國立臺灣大學出版中心
  • 出版日期:2014-04-25
  • 語言:日文
  • ISBN10:9863500097
  • ISBN13:9789863500094
  • 裝訂:精裝 / 216頁 / 15 x 21 cm / 普通級 / 單色印刷 / 初版
 

內容簡介

  中井竹山,十八世紀日本儒學學者
  本書是對其《詩經》學及禮學思想之研究

  學界在論述近世日本的經世思想時,經常提起中井竹山及其經世論著《草茅危言》。然而,極少論及竹山其他的著作、特別是以稿本存世的論著,並以此探究他的思想內容。本書利用竹山的經學著作、尤其是《詩斷》《禮斷》等稿本,來探索他的《詩經》學及禮學思想。並且,比較其與履軒思想的異同。更進一步,將竹山以對抗徂徠學及崎門學者為基礎而建立一己之學的思想,置於懷德堂及其周圍知識網絡的脈絡中來探討其意義。

  近世日本の経世論を捉える時よく中井竹山とその『草茅危言』を引き合いに出される。しかし、竹山の他の著述、特に稿本として残されたものを取り上げてその思想を正面から捉える研究は低調である。本書は竹山の経学著作なかでも『詩断』『礼断』といった稿本を取り上げて、その『詩経』学と礼学の思想に迫る。また、弟の履軒の説と比較してその異同を考える。さらに、徂徠学や崎門派への批判をベースに諸学を相対化しながら自己の学を創り出していった竹山の思想を、懐徳堂とその周辺の知的ネットワークに置いて捉える。
 

作者介紹

作者簡介

田世民


  台灣南投縣人。東吳大學日本語文學系學士,淡江大學日本研究所碩士,京都大學大學院教育學研究科碩士、博士。現任淡江大學日本語文學系助理教授,以日本思想史、東亞比較思想史為研究領域。主要著作有:《近世日本における儒礼受容の研究》(ぺりかん社,2012年3月)、《近世日本儒禮實踐的研究:以儒家知識人對《朱子家禮》的思想實踐為中心》(國立台灣大學出版中心,2012年4月)等。

  台湾南投県生まれ。東呉大学日本語文学系卒業。淡江大学大学院日本研究所修士課程修了、京都大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。現在、淡江大学日本語文学系助理教授。専門は日本思想史、東アジア思想比較史。主著に『近世日本における儒礼受容の研究』(ぺりかん社、2012年3月)、『近世日本儒礼実践的研究―以儒家知識人対《朱子家礼》的思想実践為中心』(国立台湾大学出版中心、2012年4月)などがある。
 

目錄

序論

第一章 中井竹山の『詩経』理解―『詩断』を中心に―
 
第二章 中井竹山と中井履軒における『詩経』学の比較―「周南・関雎」をめぐる解釈を中心に―

第三章 中井竹山『礼断』とその廟制論

第四章 中井竹山・履軒の礼学思想とその儒礼実践

第五章 中井竹山の排仏論と鬼神祭祀説


結論
参考文献
人名索引
 

序論(節録)
 
  本書のタイトルにもなっているこの言葉は、いうまでもなく『論語』「泰伯」の次の一章に由来する。

  子曰、興於詩、立於礼、成於楽(子曰く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る。)

  吉川幸次郎は孔子の上記の言葉を次のように解説する。つまり、「この条は、人間の教養の順序をいう。道徳的興奮の出発点となるのは、詩経である。何となればそれは、ただしい感情の高揚であるから。つぎに教養の骨骼を定立するのは、礼を学ぶことである。なんとなればそれは、人間の秩序の法則であるから。最後に、教養の完成は、音楽を学ぶことにある。なんとなればそれは、感情を法則によって整理し、人間性の包括的な表現であるから」とされる 。なるほど、人間は教養を身につける順序として、まず詩を読むことによって正しい感情を高揚させ、次に礼を学ぶことによって教養のバックボーンを定立して、そして音楽を学習することによって教養の完成を求める、そのように孔子は教えるのである 。

  本書の主題は「興於詩、立於礼」に絞るが、実はその言葉は竹山の思想形成を考える上でも重要な意味を果たしているのである。

  竹山は29才の時(1758〔宝暦戊寅8〕年自序)、近体詩の声律や作法を論じる『詩律兆』という著作を書いた。それによって詩論家としての位置を確立した。同じ年に父甃庵を亡くした竹山は、先考の遺志を継ぐために、甃庵の遺著『喪祭私説』を履軒と補正校訂し、2年後の1760年にそれを脱稿した。かくして、竹山は而立の年に詩と礼という2つの領域においてそれぞれ大きな仕事を完成させ、着実に学問の基盤を築いたのである。

  竹山は「山崎の諸儒は、程子の説を誤り会して、文章を学者の大禁とすること甚だ僻事なり」というように、崎門派の文章軽視を否定し、「実行」を主として「文業」を修めることを学者の当然であると主張する 。一方、もし「実行を廃し虚文にのみ馳せる人あらば、それは学者の罪なればずいぶん強く戒めたるがよし」 とするように、実行を志向しない文章一辺倒のことにも警戒を示している。また、第一章で見るように、詩文をあくまで「余事」とする竹山は、文章の重要性を認めながらも、学問の本領はやはり「経術」にあると考えている。竹山が『詩断』や『礼断』という一連の経書注釈を著したのも、そのことと関わりがあると見やすい。

  しかし、その経書注釈の仕事は自己目的として完結するのではなく、「実行」を志向するための学問の基礎としてあるものである。つまり、『詩断』における注釈作業は具体的な詩文実作にもつながるし、『礼断』におけるそれも現実の儀礼実践に関わって補完関係にあると考えられる。そして、懐徳堂の学主としての竹山の立場を考えれば、それはさらに書院の経学教育の実践と不可分の関係にあるのである。

  本書は竹山の経学著述なかでも『詩断』『礼断』といった稿本を取り上げて、その『詩経』学と礼学の思想に迫る。また、竹山の思想的位相を見るために、履軒の所説と比較してその異同を考える。さらに、崎門派や徂徠学への批判をベースに諸学を相対化しながら自己の学を創り出していった竹山の思想を、懐徳堂とその周辺の知的ネットワークに置いて捉える。

  なお、本書の目的は竹山の経学著述を利用してその思想を明らかにして、それを思想史的に位置づけてみることにある。筆者の知識や力量の制約もあって、それを日本経学史や中国経学史という文脈に置いて捉えることを意図するものではない。特記して断っておく。
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